●行動開始●



「情報が足りないな……」

 入居者名簿と私のメモを交互に読みつつ、ナルはぽつりと呟いた。
 確かに来鈴さんの部屋自体は小さいから見取り図もカメラの設置も楽なんだけど……でもあの『足音』と『奇妙な失せモノ』が来鈴さんの部屋だけで起こっているのかどうかもわからないし。

 ちらりと時計を見ればまだ六時過ぎだ。そろそろ夕暮れだけど、まだ動けない時間でもない。

「少し出て来る」

「えっ?」

 颯爽とナルは身支度を整えて、部屋を出て行ってしまった。
 多分、いろいろと調べに行ってるんだろうけど……その間私らには何をしろっていうんじゃ、お前はー!! まったくいつもいっつもいつも! 自分勝手でおナルなんだからぁっ!!

「えーっと……とりあえずナル坊がいない間、俺達にできることといったら……」

「言ったら!?」

 うーん、とぼーさんが腕を組んで唸る。

「夕食の手伝いとか……」

「………………期待した私がいけなかったよ。ほろり……」

「そこまで真に受けるなよ、じょーちゃん!!」

 慌ててぼーさんが復活する。
 や、もう。ほんとに大人なんて信じたくなくなってきた……。

「人には向き不向きってもんがあるだろ。ナル坊にはなくて俺達にあるものといったら、優しい親切心デショ?」

「ぶっ! 確かに!」

 そうだそうだ。その通りだ!
 私達二人がえいえいおー! と励まし合っていると、リンさんが少しだけ苦笑したのを私は見逃さなかった。

 その後、とりあえず私は美智子さんのお手伝いをして夕食作りにいそしんでいた。自活はしてるものの、料理の腕はいまいちなんだけどね……まだ……んんっ、でもこういうのは気持ちの問題だよ! 気持ち!

「まぁーいいぃ……そろそろ代われ……」

 ぼーさんが死にそうな声をしてキッチンに来たと思ったら……あらあら、ぼーさんの背中には子泣きジジイよろしく一樹くんと健太くんがべったり張り付いている。

「おうまさーん、もっとはしれー!」

「かんべんしてください、王子様……」

 ……ぼーさん、それ本気で言ってないか……?
 わんぱく坊主たちを相手にするのって結構疲れるんだよね……。

「あれ、リンさんは?」

「ああ、なんか音の分析してたぜ。何の音か特定してみるとかうんたか……」

「ふぅん……」

 科学的に難しいことはおばかな私にはよくわからない。けど、多分それは重要なことなんだろう。
 ……子供達と戯れるリンさんもも一回見てみたいけどね。ぷぷ。

「ごめんなさい、滝川さん。子供達、久しぶりに大人の男の人と遊ぶ事が出来て嬉しいんですわ」

「あー……旦那さん仕事でお忙しいんでしたっけ。あんまりお子さんたちと遊ぶ暇もないんですか?」

「ええ……仕方がないんです、仕事ですから。この不景気に仕事があるのはとても良い事ですし……おかげでこうやって暮らすこともできます……」

 でもそう言う美智子さんの顔は全然嬉しそうじゃなくて……すごく苦しそう……淋しくて。
 またぼーさんが引きずられて遊びにいく健太くんと一樹くんは、本当に心の底から嬉しそうに笑っていた。





 一樹くんと健太くんははしゃぎ疲れたのか、夕食後すぐに寝てしまった。奥の子供部屋に布団を敷いて寝かせると、二人とも無邪気で可愛らしい寝顔を見せてくれた。

「寝てる時は天使だな……」とはぐったりと疲れきったぼーさんのコメント。真実味があるよね、これ……。

 どうぞ、と美智子さんが出してくれた緑茶をすすりながら、私はなんとなく落ち着かずにちゃぶ台で美智子さんと向き合った。

「あの……すごく不躾で失礼かもしれませんけど……旦那さんはいつ頃から出張に……?」

 すると段々と美智子さんの顔が曇り、愁いの表情を見せた。

「やっぱり……わかってしまいますよね、すみません……。なんだかすごく自分が恥ずかしいような気がして……」

「離婚、されたんですか?」

「いいえ。戸籍上は、今でも私はあの人の妻です。名字も変わってませんし……ただ……そうですね、事実上離婚しているようなものです」

 なんだか聞くのがすごく悪い気がするけど……でも、こういうのは絶対に女同士で喋った方がいいとも思うし。
 うん……これは、私の役目なんだからしっかりしなくちゃ!

「今は一緒に住んでいないんですね?」

「ええ。夫は……あの人は、都内に別の部屋を借りています。具体的な住所は知りませんけど……多分、別の女性と」

 うわぁ……泥沼……。

「愛し合って結婚したはずなんですけど……どうしてこうなってしまったのか、私にもよくわからないんです。
 ただ、段々と……最初は仕事で忙しいのだと思ってましたけど……いつの間にか、彼は家を出て行ってしまいました」

 へたり、と両手で美智子さんは顔を覆った。声が小さくひび割れる。

「それでも毎月、あの人は私の口座に給料を振り込むんです……あの子たちの養育費のつもりか、私への罪滅ぼしのつもりか、何もわかりません。もう数カ月会ってません」

「そんなに……」

 涙ぐむ美智子さんの左薬指……シルバーの指輪。
 私の視線に気づいたのか、美智子さんは顔をあげて苦笑した。

「馬鹿ですよね……もう、何もかも、取り返しがつかないのに……。
 私、まだいつか帰って来るんじゃないか……健太みたいに、ひょっこり帰ってくるんじゃないか、って……思ってしまうんです」

 それは願いだ。
 祈りだ。
 ……でも多分、届かなくて叶わない。

「あなたも同じ女だもの。誰かを愛しいと思うことはあるでしょう?」

 どき。

 そ……そりゃ、現在進行系で誰かさんを好きではいるけどさ。

「それがどんなに馬鹿げていても、どんなに困難でも……どんなに年老いても、色あせたりしないのよね」

 …………わたし、は…………。

 無理な恋をしたことがある。
 絶対に報われない気持ちを抱いたことがある。

 ううん、まだ……まだ、持ってる。まだ残ってる。
 私の胸の奥に、絶対に絶対に消えないジーンへの想いはずっとある。

 でもそれとは別に、ナルを好きだって思う気持ちもある。
 どっちも同じでどっちも違う。だから、どっちが一番かなんて決められない。

 返事のない恋だからって、諦めたりすることはできないから。

「わかります……わかりますっ、とても……!」

 終いには私の目にも涙が浮かんでしまった。





   *




「麻衣、泣かないで」

 ……あなた、だぁれ。

「呼びに来たんだ。君はもうひとりぼっちじゃないから。ナルを呼びにいこう?」

 ジーン……ジーン、だ……!

「嬉しい……またジーンに会えて、すっごく嬉しいよ……!」

 緩んだ涙腺がまた切れて、ぶわっと涙が流れ落ちる。
 ぎゅってジーンの袖を掴んで、離さないって力を込めた。

「麻衣、あんまり泣くと瞳が溶けちゃうよ」

「溶けるくらい泣いた方がすっきりするよ」

「だめだよ。ナルががっかりする」

「ナルなんか全然、私のこと馬鹿にしてばっかりで……」

「天の邪鬼なんだよ」

 くす、とジーンはナルと同じ顔で優しく笑う。

「さ、ナルを迎えに行こう」

 手を引かれて、ふわふわとした道を歩く。右は黒く、左も黒く、足下だけが白く輝く道が出来ていた。

「ねえ、ナルはどこにいるの?」

「先に行ってしまったんだ。だけどひとりじゃ可哀想だから。僕達も一緒に行ってあげないと」

「ナルはどこに行ったの? まさか危険なところに一人で行ってしまったの?」

「……とても冷たくて、とても孤独で……とても淋しいところへ、ひとりで行ってしまったんだよ……」

 ――ショックだった……。

 どうして、どうして!
 だってあんなに私のこと好きって言ってくれたのに。私だって、あんなにナルが好きって言ったのに。

 あんなに抱きしめ合ったのに! この温もりをちゃんとわかちあったのに。

 私を置いて行かないって言ったのに、どうして! どうして私とジーンを置いていこうとするの!?

「追いかけよう、ジーン! 早くナルに追い付かなきゃ!」

「うん。そうだね……だからね、麻衣」

「え?」

 掴んだ手が、ぐにゃりと溶ける。
 振り返りジーンを見ると、さやさやと目の前で身体が崩れて行った。



「ナルをひとりにしては、いけないよ……」



 頭が……痛い。

 なんだろう、と思って酸欠に近い状態なんだって思い当たった。
 あー、……あんなに叫んだからかなぁ……。そうそう、風船を膨らまし過ぎた時に似ている。

「――――そもそも俺はナル坊がこんな依頼を受けたこと事態、不思議に思うね」

 ……ぼーさん?

 あ、そか。私、夕食の後美智子さんの話を聞いて、それから早めに仮眠をとったんだっけ。ナルがいないから代わりに起きてモニタを見るようにって……同じ部屋に布団一枚だけ敷いてもらって……

 ってゆっか今の夢だよね……? またいつもの……夢だよね??
 ……ちょっと待てやコラ、自分!!

 『あんなに好き』とか『あんなに抱きしめ合った』とか私は何を考えてるんだ?!
 わーーぎゃーーー!! 私はナルに好きだなんて言われたこと、一度もないし、そんなこと想像もできない!!

 ……いや、現に夢見てますけど……それは置いといて!!
 恥ずかし……誰かに夢を覗かれなくてよかった……(もう自分でもパニクってるのがよくわかるぅう)。

「らしくないことはまだまだある。あそこまで積極的に行動するナル坊を、俺は生まれて初めて見るね。管理人に会いに行った時も、屋上を調べに行った時も、俺の出る幕なんてほとんどない。そもそも今回、俺を連れて来る必要はなかったはずだ。何も調べていない状態で俺を確かな必要性なしに呼び出すなんてナル坊らしくない。

 今回の依頼、嬢ちゃんが引き受けさせたとか何とか言ってたが、本当は別の目的があったんじゃないのか?」

 ……なんか、すごくまじめな雰囲気。
 今更起きちゃったー、てへ。とか言って間に入るのは……なんか……ねえ。

「確かに今回の件はイレギュラーです。いつものナルならにべもなく断るでしょうし、第一に依頼者を信用できていない時点で普通なら終わりです。その理由は確かにあると思いますが、私にもそれはわかりません」

 リンさんの声。どこか硬い……。

「……? ナル坊の個人的な理由ってことか?」

「おそらく。見当はつきますが、確信はありません。私の口から不確定なことを申し上げたくはありませんし、万一それが合っていたとしても本人から聞くのが一番だと思います」

「ふーん……大方、この間の金髪美人のウェンリちゃんだっけか? そいつが言ってたフューナレルの関係、とか」

「………………」

 ひゅーなれる??
 二人とも、しばらくは黙り込んだ。

「これでも俺、一応スタジオミュージシャンですから? 世界各国のミュージシャンと渡り合う為に多少の英語は心得てますのよ」

 おちゃらけたぼーさんに、リンさんも少し苦笑したらしい。

「存じてます。おそらく理解されているだろう、とは思ってましたから。ナルもそう思って滝川さんを頼りにしていると思いますよ。それに何より、谷山さんに黙っていてくれて感謝しています」

 ……およよ? 私?

「思えば嬢ちゃんだってもう高三だからな。いつも忘れがちになるがナル坊だってまだ未成年だった訳だ。
 腹はもう決まってるんだろ?」

「おそらく。私には何も言いませんが、いつまでも楽観視している訳にもいきません。相手側の我慢もそろそろ限界でしょう。ミズウェンリが直接日本に来た事が良い証拠です。

 ナルもわかっています……けれどもこれは、ナル自身がひとりで決めなければならないことです」

 ……ナルが、『ひとり』で…………?

 このことなの、ねえ……ねえ、ジーン……!

 私には何の事だかわからない。ぼーさんとリンさんが何の話をしているのか、全然わからない。
 話はナルのことで、ナルが何かとてつもなく大きな問題を抱えてるってことで……それはナルにしか決断できないことで。

 『ナルをひとりにしちゃいけない』ってジーンが言う……でも……でも……!!

「……麻衣?」

「谷山さん?」

 やだ……イヤだ、そこは暗いんだよ、ナル。
 そんなところにひとりで行ったら、淋しくて寂しくて死んじゃうんだよ、ナル!

 私を連れて行ってよ、どうして連れて行ってくれないの。

 ジーンに言われなくたって、私はナルをひとりになんかしたくない。
 だって、ひとりぼっちだった私を助けてくれたのは――ナルだった。

 追いついて。
 届いて。
 手を放さないで。

「やだよ……ナルがいなくなるのは、やだよぉ……!!」

 これは夢だ。
 まだ私は寝ぼけてるんだ。

 だって、ナルはさっきまで一緒にいたんだから……今はただ、何かを調べる為に外出してるだけなんだから。

「……寝ぼけて泣いてるのか、嬢ちゃん……器用だな」

「私達の声が夢まで届いているのかもしれませんね。不安になるかと思って黙っていたんですが……可哀想なことをしました」

 二人の声が聞こえる……それから、額に大きな掌が触れる。

 暖かい……安心する――ありがとう、ジーン……。

 きっと大丈夫だよね……これはただの夢なんだから……ナルがどこかへ一人で行ってしまうなんて、そんなことは……起きないよね……?










続き